÷0  ジャンル雑多な読書感想文
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万延元年のフットボール
万延元年のフットボール
大江健三郎 講談社文芸文庫

 奥泉光の『葦と百合』元ネタ本のうちまだ読んでいなかったので、読んでみた。暗くて重そうという先入観のもと読んだところ、やっぱり明るくないし重苦しいし、その上かなり長いのだけれど、抜群に面白い。書かれたのは安保闘争が終わり少し経った頃、という時代背景を前提に読むと意味が通りやすいと思います。
 万延元年と戦後と現在、死者と生者を繋ぐ『夢』の強度について。
 450ページほどの堅牢に固められた情報のかたまりを、わたしのゆるい感想でひもといていったらとんでもなく長くなりました。でもまだ全然語り足りない。『蔵』という場とか、正面だってはほとんど出てこない曾祖父についてとか、気になる部分は山ほどあれど、今回はここまで。

 あらすじ。僕は夜明け前に裏庭の浄化漕タンクを入れるための穴に犬を抱いて入り、顔を朱く塗り肛門に胡瓜を挿して縊死した友人のことを観照する。ある日、転向した学生の自己反省演劇を行うためアメリカに渡り姿を消していた弟が日本に帰ってくる。僕は妻と弟たちと一緒に故郷の谷間の村へ、遺産である蔵を売り新生活の礎となるべき「草の家」を見つけに帰る。弟は村の若者を組織して、かつて僕の曾祖父の弟が指導した万延元年の一揆を再現しようとしていた。

 こうしてあらすじを書くと脈絡ない感じだけれど、実際に読むとどの文章もしっかりと絡み合い、適度な謎が少しずつ明かされていくという展開なので、思った以上に読みやすい。軸となる3人の登場人物が、「社会に受け容れられた人間」としてネズミのように生きている主人公の蜜三郎、アルコール依存症になりかけの妻の菜摘子、暴力への衝動を持ちながら一揆の再現を目論む鷹四。彼らの周囲には、鷹四の崇拝者の若者である星男と桃子、際限なく肥満していくかつての使用人のジン、温厚な村の住職、村を経済的に支配する朝鮮人の「スーパーマーケットの天皇」、角刈りの不気味な村の若者などが配され、さらにその周りに閉鎖的で鬱屈したムラ社会がある。そして直接姿を現すことのない、顔を朱く塗り肛門に胡瓜を挿して縊死した友人と、頭の手術によりただ笑うだけになった主人公の赤ん坊が小説全体に影を落とす。

 とにかくこの小説にはすごい量の情報が詰め込まれているのに、破綻なく圧倒的な質量感で迫ってくる。小説は登場人物たちの生き方を語り、ムラという特異な社会を語り、日本という国家のことを同時に語っている。万延元年の一揆を語り、戦後の混乱を語り、現在のフットボールを語っている。いまおきてる現実を語り、過去に起きたことへのイメージを語り、また文献というテキストを語っている。どれもが確かに等しく重さを持ち、緊密に繋がりあっている。
 ひとつひとつのエピソードや登場人物たちが、同時にムラ社会や日本の縮図であるという多義性を持つために、文章一つ一つがどうしようもなく重い。わけもわからず抑えきれない欲望で肥大する者、責任の所在のわからないまま暴動に参加し『恥』の意識を持ち続ける住民など、具体的なイメージを持ちつつ抽象化された登場人物たちはわかりやすく日本の国民をも表しているのだと思います。
 そしてこの小説をさらく重くしているのは、個人や国家や社会という水平方向とともに、万延元年と戦後と現在という垂直方向が様々に響き合う重層構造です。万延元年の一揆を主導し、一揆弾圧後に姿をくらました曾祖父の弟、戦時中様々の暴力行為に荷担し戦死した長男、戦争から帰り朝鮮人集落の襲撃に参加して殺害されたS兄さん、安保闘争に挫折し転向した弟の鷹四、血で繋がったこの縦糸を現在まで引きよせて折り重ねるように繋いでいくのが『夢』というイメージである。鷹四が語るS兄さんの死亡時の記憶は、僕が憶えているものとは食い違いがあり、改ざんされた様子である。曾祖父の一揆後の消息や、S兄さんの死の真相など、誰もがそれぞれのイメージという『夢』を持ち、鷹四はそれを現実に再現しようとする。
 だからこそ過去は現在と重なり合い、そのように歪曲されつつ現在まで伝えられてきたイメージを引き継いでいく仕組みが、この作品でのキーのひとつである念仏踊りなのだと思います。

 さて、この小説を語ろうとする上で欠かせない台詞が「本当のことを云おうか」という言葉です。小説を書くに当たってこれほど矛盾する言葉はないわけだけれど、これだけ長い小説でありながら、実のところ『本当のこと』というのは結局明らかにはされていないように感じられます。
 『本当のこと』を言ってしまった友人は理解を越えた形で死んでしまうし、主人公はまだ『本当のこと』を手に入れられず、最後に明らかになる曾祖父の弟の生き方については、あくまで主人公がラストにもたらされた手がかりから推測したものにすぎない。そして鷹四のあの忌まわしい告白は、告白した内容ではなく、彼の惨たらしい死をもって『本当のこと』になってしまう。
 けれど、結局他者には『本当のこと』などわからないし、そもそもそのような「社会に受け容れられた」人間に理解されることを拒むようなものこそ『本当のこと』だと鷹四が定義している以上、『本当のこと』など明らかになりようにないわけです。
 どれだけ過去や他者について『本当のこと』を求めようとも明らかになることがないと知ったうえで、だからこそ過去や他者とリアルに繋がりを持つたったひとつの手段である『夢』が、歪曲され不確定な形でありながら、この作品では切実さを持って、こんなにも確かなのかもしれないと思いました。

 面白かった場面は、鷹四の告白に対する主人公の徹底的な拒絶戦後や安保の後にきっと沢山のこうした告白があったのだろうと思う。そして今だって、小説のなかにはもっとどうでもいいような告白の垂れ流しが、それこそ無数にある。
きみはただ、そうした荒あらしく酷い死を遂げて、近親相姦とその結果ひきおこされた無辜の者の死の罪悪感を償うにたる自己処罰を果たし、しかも谷間の人間には、『御霊』のひとりとして暴力的な人間たる記憶をかちえることを切望しているのみだ。(中略)しかし、鷹、繰りかえしきみは危機に甘ったれてみせるが、最後のどんづまりにはいつも抜け道を用意しておく人間だ。妹の自殺のおかげで罰せられもせず恥ずかしめもうけず、なにくわぬ顔で生き延びた日から、それがきみの習性になったんだ。今度だってきみはなんとか卑劣な手段を弄して生き延びるにちがいない。(中略)殺させれた自分の眼をやるなどと、自分のまぢかな死を信じているふりをした、ごまかしをいうな。僕は実際、死者の眼だって必要としている人間だ、そういう不具者を嘲弄するな!


 ラストの感触は、「個人的な体験」とかなり似ている感じです。なんだか最後の部分だけちょっと都合が良いというか、希望を描くにしても若干甘さが残るような気もしました。

 最後に、この小説を読むきっかけとなった「葦と百合」のテキストは、小説も夢も現実も同じように軽くふわふわして、その不確定な可能性が自由で楽しい感じだったけれど、この小説は同じくテキストと夢と現実の不確定性を語りながら、同じように堅牢で重い確かさを持つところが対照的で面白かったので、読み比べると愉快かもしれません。
* 2010/06/12(土) # [ 読書感想文 ] トラックバック:0 コメント:0

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