÷0  ジャンル雑多な読書感想文
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あるひとつの「葦と百合」解釈
注意)ネタバレです。ちなみに「虚無への供物」は未読。



○前提
1,Fragmentsの文章は全て、事実あったものだとする。
2,Intermezzoなどの「ぼく」主観の文章は、「~の章」の文章より信憑性が高いとする。(事件の外部者による記述だから)

○3年前と百合の章
 「地下の章」の最後の部分で、それまでミステリー然としていた雰囲気が様相を変える。有紀子は、長者岩の中で直也の死体を見つけることによって。式根は、3年前に新潟の病院で入院していたことを有紀子告げられることによって。ここで3年前に何があったかが、今まで続いてきた虚構を崩す鍵になる。
 どうやら式根は3年前に新潟へと来ていたらしい。「百合の章」での直也との長い会話、また有紀子(小夜子)の話から、式根とこの二人とは3年前に何らかの接触があったと思われる。IntermezzoⅢの新聞記事から、直也は3年前に死亡したと推定できる。胸に損傷があるということから、「百合の章」の式根の幻想に出てくる胸に穴の空いた死体は、時宗ではなく直也だろう。
 台風が来ていた3年前、新潟で何があったのかは想像の域を出ない。ただ式根が直也の死(自殺か?)に何らかの形で関わったこと、小夜子と面識があることだけが、おぼろげに推測できる。
 小夜子の「鬼音峡殺人事件」は、3年前の事件に対する小夜子の解釈なのだろう。式根の「時宗の死」の回想も、式根なりの解釈なのかも知れない。

○推論
 式根が新潟駅で発熱しながら朦朧と見た夢(幻覚)と、小夜子が書いた「鬼音峡殺人事件」、そして銀太郎の書いた推理小説の複合体が切れ間無しに続いているのが、「~の章」の文章ではないのだろうか。
 ベースとなる銀太郎の小説には、岩館家の呪い・森に潜む殺人鬼・疎開児童の事故・茸による幻覚・かつての恋人との挿話などの重要なモチーフが、ほとんど出てきている。もちろん小夜子の書いた物語は、父である銀太郎の作品の影響を濃く受けている。草壁の死は、そのミステリ性からして小夜子の創作に出てくるのではないだろうか。
 おそらく、式根は小夜子の書いた物語を読んでいたのだろう。小夜子が知るはずのない佐川や中山が文中に出てくるのは、式根が「鬼音峡殺人事件」等の物語を、意識の中で改竄しているとすれば、納得できる(と思う)。現に「百合の章」では、直也達と話している式根が自身を見下ろす、上位者としての視点が出てきている。
 銀太郎の小説を元に、式根と小夜子の3年前の事件に対する解釈が混ざり合って、それを式根が夢うつつに眺めている。以上より、このような推測できる。
 この場合、Intemezzoなど「ぼく」主観の文章はいったい何なのだという話になる。式根からも小夜子からも離れている「ぼく」がどうして、この虚構に出てくるのか。様々な解釈を導き出すための、ある程度の客観性の担保だけでは妥当とは言えない。式根が中山達と一緒に、小国まで行った場合のパラレルワールドの記述者なのだろうか。

○実証主義と民俗学
 一応結論めいたものは出たが、もちろんこれで終わりではない。今までの推測は全てFragmentsの文章が全て事実であると仮定して、導いたものである。ここまでの推論は、例えていうならば、直也式のがちがちの実証主義であり、伝承にも重きを置く民俗学的手法は無視している。けれど、この本の中で幻想や回想や物語は、全て虚構として排してよい存在なのだろうか。
 銀太郎の作った儀エ門の伝説は、人々の願望に入り込み、事実あった歴史を塗り替えて「歴史的事実」へとなっていった。皆の合意を得た虚構が、現実となっていく過程を示した挿話は「葦と百合」の中で大きな意味を持つ。現実と虚構の境目は曖昧であり、逆転は起こりうるのである。
 読者はFragmentsに出てくる時宗の手紙と、小夜子が書いた「鬼音峡殺人事件」とが、一体何が違うと判断するのか。あの手紙が、本当に時宗がネパールにいることを示しているのか。この本を最後まで読んだなら、はっきり肯定はできない。ただそのようなテキストがあるということだけが、読者には提示される。
 Fragmentsに出てくる結婚式の招待状で、式根の結婚相手である女性の名前は、「野中百合子」である。この冗談のような名前は、何を表しているのだろうか。
 Fragmentsも、その文章自体が事実であることを何ら証明しない。ただ、最後に示されることによって、その文章が他の文章より信頼性があるように見えるだけである。
 
○メタフィクション
 数々の断片のような、それぞれの人物による物語が「葦と百合」には納められている。例えばそれは、物語であったり、幻覚であったり、手紙であったり、回想であったりする。一つの定められた結末はなく、それぞれの解釈があるのみである。例えば小夜子の物語の中では、いつまでも神藤が真犯人であるように。そのどれを重視し、どれを切り捨てるのか、それはこの物語の読者へと委ねられている。Fragmentsのなかで、「ぼく」達は最後に式根が東京行きの新幹線に乗ったかどうか、確認していない。もしかしたらそのまま駅で白いジャケットを羽織りながら微睡んでいるだけかも知れないし、新潟へと向かったのかも知れない。
 客観的真実というものは、この作品の中ではあり得ないが、だからこそ一人一人の解釈、言い換えれば物語がある。そして、「葦と百合」を読んだ読者自身がそれぞれの、この作品の解釈を作り上げることが出来るのである。提供される様々な物語の断片は、不確定な不安を、解釈を作り上げる想像かつ創造の楽しみへと変える。大事なのは「想像力」だと、作中でも言及されているとおりであろう。

○弁解
 百合を宇宙船にたとえる比喩だとか、シューマンの歌曲が及ぼす効果、太文字ゴシック体の「あの人」(翔子ではないらしい)、他諸々、結局よく分からないところが多かった。文章もあまり整理されていなくて、申し訳ない。
 意見・批判・間違いがあれば、コメント・メールフォームなどから指摘してください。

○最後に
 雛本先生の学問的向上心は結局どうなったのかが気になる。
* 2005/09/13(火) # [ 考察 ] トラックバック:0 コメント:0

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