÷0  ジャンル雑多な読書感想文
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ユリシーズⅠ
ユリシーズⅠ
ジェイムズ・ジョイス 集英社文庫

 「失われた時を求めて」を読んで20世紀の文学を完成させたら、次は「ユリシーズ」でがちゃがちゃにぶっ壊してしまえ、というわけで読みはじめてみた。ちなみに「ユリシーズ」とはホメロスの叙事詩「オデュッセイア」の英語読み。
 あらすじ。1904年6月16日、ダブリンでの一日。作家を目指している教師のスティーブン(22)は小学校で授業をした後、上司の記事を載せるために新聞社へ向かう。一方、ユダヤ人の広告取りのブルーム(38)は、友人の葬儀に参加した後、同じく新聞社へと向かう。スティーブンには出会わないまま、ブルームは調べもののために国立図書館に向かう。午後1時。
 本の厚さに驚くが、半分くらいは注釈と解説なので、本編は思ったより短い。「失われた時を求めて」の時も思ったが、詳しい注釈は知識の浅い私にとって助けになるが、読む推進力も奪う(たまにネタばれもするし)諸刃の剣。いつか、柳瀬訳もついでに目を通しておきたい。
 綿密なプロットと計算の上で作られた小説で、それぞれの章に象徴となる色や器官、対応する表現技法や時間が定められ、もちろんオデュッセイアとの対応もある(らしい)。
 今のところ、”意識の流れ”を究極まで突き詰めたらこうなるのではというような文体で書かれている。随所に掛詞のような言葉遊びや、連想ゲームのような思いつき、歌の切れ端が混じり込み、散漫で落ち着きのない人の普段の思考が念入りに描写されている。衒学的なスティーブンの意識は、捨て去ったキリスト教へのこだわりや母への罪悪感、友への鬱屈から暗く、全体的に読みにくい。普通のユダヤ人のおじさんに見えるブルームの思考は、ついつい女の人の尻を追い回したり、からかうように眺めていたりする一方で、唐突に無常観に囚われたり、生まれてすぐに死んでしまった息子のことや、浮気しているかもしれない妻と間男のことが頭につきまとっている。
 彼らの思考の前提として、旧訳・新約聖書などキリスト教の常識やシェイクスピア作品の教養、そしてアイルランドの歴史があるので、そのあたりのことがいまいち飲み込めないと細かい注釈があっても正直、読んでいてもよく分からないところが多数。ようやく慣れてきたので、少しずつペースをつかんでいきたい。
 これからの展開が読めないので、まだ何とも言えないが、とりあえずさいごにイエスといってくれるところまでよもうイエス。

今回の引用は、7章の「アイオロス」から
なぜだかいきなり、一部分だけ冒険小説の文体に変わるところ
 使者はもの思いにふけりながらマッチ箱を取り出すと、葉巻に火をつけた。
 あれから、あの不思議な時間を振り返ってはよく考えたものだ、その後のわたしたち二人の一生を決めたのは、それ自体は取るに足りない、あの小さな行為、あのマッチをするという行為であった、と。
『あの』を使いすぎ。ここだけ文体が違う意味も分からない。『、と。』というのはいかにも冒険小説らしいので、つい笑ってしまった。
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* 2006/10/24(火) # [ 読書感想文 ] トラックバック:0 コメント:0
銃・病原菌・鉄
銃・病原菌・鉄
ジャレド・ダイアモンド 草思社

 人類学の謎を解き明かすピュリッツァー賞受賞作。
 アメリカ人であるダイアモンド先生は、ニューギニアでフィールドワークをしていました。現地で協力してくれた原住民達は、彼らは狩猟採集生活を営んでいたのですが、白人が持ち込んでくるプラスチックなどの人工製品に興味津々でした。ある日、ダイアモンド先生は原住民のヤリという男性から尋ねられました。「どうして白人達は、こんなに沢山のものを持っているのに、自分たちはこういったものを持っていないのだろう?」確かに、不思議です。多くの人は、それは白人が他の人種より優れているからだと言います。しかし、彼らは文字こそ持っていませんでしたが、生きるための術を身につけ、常に興味関心を持ち、下手なアメリカ人より知性的であるとダイアモンド先生は思っていました。それではどうして、彼らはヨーロッパ人よりも先にこういったものを発明しなかったのでしょうか?どうして、世界は今、ニューギニア人ではなくヨーロッパ系白人が覇権を握ることになったのでしょうか?ダイアモンド先生は、ヤリのこの素朴な疑問に答えるべく、何年にも渡る研究をすることにしたのでした。
 というわけで、歴史学・遺伝生物学・言語学などを駆使して、各大陸や地域における人類の発展度の差がいかにして形成されるに至ったかをダイナミックに説明してくれる好著。込み入った専門的な説明もなく、門外漢でもすらすらと読めるところも良い。
 何より、食料生産がいかに早く始められたかによって、その後の歴史が大きく変わってしまう。食料生産は富の偏在を可能にし、文字を扱える官吏や効率的な集団運営を可能にする政治家を生み出す。また、人間のために飼い慣らした家畜は、体内に持つ病原菌によって疫病に対する抵抗力も身につけさせてくれる。一方、家畜を持たなかったものたちは、やがて家畜を持った人々と接触したときに、彼らがもたらした病原菌によって大きく人口を減らしてしまう。興味深かったのは、大陸が東西に長いのか、南北に長いのかで農業や家畜の伝播速度が全く違うことで、この要因も社会の構成にまで大きな影響を与えてしまう。
 何より作者が言いたいのは、地域による発展度の違いは、人種による違いではなく、地域によって違う気候や植生、地理的特性など環境という要因によってもたらされるということである。
 日本は、食料生産がしやすい温暖な気候で、且つ食料生産が始まった地域の一つであり文明の中心地でもある中国と、近すぎず遠すぎずの位置にあって運が良かったと思ってみたり。

 最後に一つ面白いエピソード。19世紀初期のアメリカ。ネイティブアメリカンの一つであるチェロキー族のセコイヤ(鍛冶屋)は、白人が何かを紙に書き付けて、長い話を覚えたり、繰り返しているのを見て、それが役立ちそうな物だと考えました。しかし、彼は読み書きが出来ず、英語も知りませんでした。そこで彼は、自分で便利な表記法を考えることにしたのです。必要な図柄が多すぎたり、母音と子音の関係を発見することに手間取ったりと、試行錯誤を繰り返しました。最終的に彼は近所の先生から貰った英語の教科書からアルファベットの図柄も拝借して、チェロキー族の言葉を書き表すのにぴったりな、チェロキー語を発明したのです。習うのが簡単で発音に巧く対応していたこの言語は、チェロキー人にすぐに広がり、やがて彼らは本や新聞を印刷するようになりました。このチェロキー語は言語学的にも評価が高いそうです。人間やれば出来るものだと。
* 2006/10/21(土) # [ 読書感想文 ] トラックバック:0 コメント:0
蛇を殺す夜
蛇を殺す夜
奥泉光 集英社

 それぞれ「言葉」と「イメージ」を主題にした中編集。なかなか面白かったのだが絶版。図書館で借りるしかないが、表紙がエログロ風味なのでご注意を。作者は売れ行きを気にするなら、もっと売れそうな装丁にすればいいと思う。
 「暴力の船」
 抽象的に言うなら、近代のアカデミックな言葉と暴力、そしてその後のポストモダンの言葉との関係。具体的に言うなら、内ゲバ時代のシラケ世代が経験する無気力で奇妙な大学グラフィティ。
 とりあえず錠念先輩の造形に尽きる。他人の気持ちを考えているようには見えず、論理一点張り。暴力誘因性を持ち、本人にその気はないのに、なぜか非常に見下したような笑顔を浮かべてしまう。外国語は苦手だが(原文にカタカナでルビを振ったりとか)、カタカナ語は得意。マルクスを信奉していてその「理想世界」の実現を確信しているが、そのイメージは曖昧で具体的達成手段もない。もちろん宗教とは阿片。
 あれだけ軽蔑しきっていたそんな錠念先輩こそが、今を生きる『僕』にとってまさしく『先輩』なのである。最後に静かにひっそりと死にゆく彼に『僕ら』がかける言葉は既になく、そして彼は喪われていくのである。
 「魔の山」のセテムブリーニ氏と同様、気づかず矛盾をはらみながら、それでも近代理想主義の達成のために己を決して曲げないところは、その頑迷さも含めて、素直に尊敬に値するようにも思える。
 ウツボ船のエピソードを中心とする暴力との関係はよく分かりませんでした。

 「蛇を殺す夜」
 身も蓋もなく言えば、マリッジブルー気味の主人公が、婚約者との彼女の実家への旅行中に初めて性交渉を行おうとしたら起たなかったことを、ずるずると考え続ける話。
 少年であり、謎めいた女であり、下卑た中年男であり、性欲そのものでもあり、ありとあらゆるイメージの奔流の中心に据えられている「蛇」が不気味で引き込まれる。
 語り続けていくことによって流れ出した全てのイメージは、語ることによって溶けて曖昧になりながら、そのあまりの存在感に引きずり込まれそうになりながら、そこから抜け出すために、今や名前しか知ることのできない婚約者の名前を主人公は呼び続ける。
 表題通り、『蛇を殺す夜』なのだが、実際蛇を殺せるのかとか、もし殺したとしてそうしたら主人公はどうなってしまうのか、と考えると主人公の行く末は結構悲観的かもしれない。
 あまりにも意味のない苦役と虐待に耐え続けながら、ほんの一瞬に月を眺め夢を見る熊は一筋の希望。
 結構笑いどころもあって、途中で主人公に送られてくる強迫状の三文官能小説もどきが可笑しすぎる。今時使わない(と思う)「ギヒヒ、ゲヘヘ」とか突如出てくる文学的表現とか。作中では尻切れ蜻蛉で終わっているが、もちろん続きが気になる。その他、確率や結婚観のエピソードもありお得。
 通称『へびころ』だが、あまり人気がない話らしい。面白いのに。やっぱり装丁が悪いのだと思う。
* 2006/10/08(日) # [ 読書感想文 ] トラックバック:0 コメント:0
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