÷0  ジャンル雑多な読書感想文
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失われた時を求めて13
失われた時を求めて13
見出される時Ⅱ
マルセル・プルースト 集英社

 感動の完結作。これだけ読めば、次からはどんな大長編でもどんと来い。
 あらすじ。ゲルマント大公夫人のマチネーでは、人々はまるで仮面をかぶったかのように変わり果てていた。大公夫人となったヴェルデュラン夫人、公爵夫人の愛人に収まったオデット。さらに語り手自身も自分が年老いたのを感じる。そしてサン=ルーとジルベルトの娘に、語り手は時の要素が凝縮されているのを感じる。そして、時に押されていることを感じながら、語り手は「時」を主題とした本の執筆を決意する。
 とりあえず読み終えただけでも、感無量。
 13作の中で一番好きだったのは、9作目の「囚われの女Ⅰ」だろうか。とにかく眠っているアルベルチーヌの描写が挿絵と相まって、たおやかに幻想的で美しかった。
 好きな場面は6巻の、病気で死にかけているスワンには目もくれず、ゲルマント公爵がサロンに出かけようとする夫人に、赤い服に黒い靴は似合わないと叫ぶ場面。

 わらわらと出てくる多くの登場人物。貴族であるゲルマント一族と、新興ブルジョワであるスワン一家。此の二つの方を軸に、ヴェルデュラン夫人などスノブなサロンの住人、身近に潜む同性愛者達、フランソワーズなど古き良きフランス人、そして花咲く乙女たち。さらに縦糸としてドレフュース事件や第一次世界大戦などの自自が登場人物に大きな影響を与える。そして、今までの要素が全てその身に表されているサン=ルー嬢の姿に、ここまで読んできた読者も語り手と一緒に感動すると思う。
 話の起伏なんてないに等しく、病弱な語り手がぐだぐだと未知のものに憧れたり、サロンに出たり、恋をしたり、覗きをしたりしながら、数十年経ってようやく本を書く決意をするというだけなのに、最後まで何とか読み通せたのは、長くてだらだらしているように見えて論理的な文章が割合と好みだったことも大きい。
 ヴィルパルジ夫人が後の世ではサロンの主役と見られ、ゲルマント公爵夫人が忘れ去られていくように、書くべきことを見つけるだけでは駄目で、「書く」という行為を通してしか、文学は人々に訴えることができない、ということが早くから語られている。
 普段わたしたちが使う「時間」という概念は、科学的時間で、それは空間と対の枠組みであり、直線的に流れ去るだけのものである。けれど、「時」はわたしたちが思い返すこと(あるいは無意識的記憶)によって引き戻すことができ、思い返すたびに形を変えるフィクショナルな「過去」は「現在」と重なることで、枠組みとしての科学的時間を超越できる「時」となるのである。
 これらの考えをプルーストが「書く」ことによって定着させることのできた書物が「失われた時を求めて」であり、また時を越えてわたしたちはその書物を読むことが出来る。
 「失われた時を求めて」の語り手が病気に脅かされながら執筆しようとした「時」を主題とした小説。そしてプルーストが死ぬまで推敲を続けた「失われた時を求めて」。読者であるわたしがこの「失われた時を求めて」を読むことによって、この作品の円環を閉じることが出来たのであろうか。いつかまた、再読してみたい。ちょうど鈴木訳の文庫版が出てきていることであるし。
空間のなかで人間にわりあてられた場所はごく狭いものだけれども、人間はまた歳月のなかにはまりこんだ巨人族のようなもので、同時にさまざまな時期にふれており、彼らの生きてきたそれらの時期は互いにかけ離れていて、その間に多くの日々が入りこんでいるのだから、人間の占める場所は逆にどこまでも際限なくのびているのだ-<時>のなかに。

次はトーマス・マンの「魔の山」(これまた長い)を読む予定
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* 2006/04/30(日) # [ 読書感想文 ] トラックバック:0 コメント:0
失われた時を求めて12
失われた時を求めて12
見出される時Ⅰ
マルセル・プルースト 集英社


 ついに最終巻一歩手前。長かったこの小説にもいよいよ終わりが近づいて参りました。プルーストの文学論も本題に入ってきた13巻。
 あらすじ。語り手はゴングール兄弟の書いた文章を読んで、文学の意味について疑いを持つようになる。第一次世界大戦がはじまり、療養中の語り手は一時パリへと戻る。そこで見たものは、年を取ってもソドムの世界を彷徨い続けるシュルリャス男爵の姿だった。大戦後に社交界へと戻ると、その世界は大幅に変わっていた。かつての花形だったゲルマント公爵夫人は凋落し、今ではベルデュラン夫人とボンタン夫人が君臨している。ゲルマント大公夫人のマチネーへと出かけた語り手は、そこでつまずいた敷石によって無意志的記憶に出会い、文学への希望を取り戻す。
 書くのが面倒になってきたので面白かったところを箇条書き
・SMに走るシュルリャス男爵(彼には助演男優賞をあげたい)
・うっかり勲章を忘れるサン=ルー(ご愁傷様でした)
・甲斐甲斐しいモレル
・つまずいた敷石とナプキンの堅さ
・ようやく書きはじめる気になってきた語り手
自分用のまとめ
現実にある現在と、無意志的記憶によってよみがえる過去というフィクション。その二つが合わさることにより、人間は物理的に流れる時を越えることができる。そしてそれを書くことによって留め、理性によるものではなく印象から得られる深いところからの目的を掴もうとするのが文学の役割である。
* 2006/04/19(水) # [ 読書感想文 ] トラックバック:0 コメント:0
猫のゆりかご
猫のゆりかご
カート・ヴォネガット ハヤカワ文庫

 世界の終わりを書いた一冊。この本を読む人は、本書の最初に付いている警告を忘れてはいけない。
本書に真実はいっさいない。
 あらすじ。主人公ジョーナは、ボコノン教の信者である。彼はかつて「世界が週末を迎えた日」という本を書くために、原爆開発者であるハニカー博士の資料を集めていた。その中で出会う、彼の3人の子どもたち。大国から見放されたサン・ロレンゾ島で知る奇妙な宗教、ボコノン教。そして驚くべき結果をもたらすハニカー博士の発明『アイス・ナイン』 奇妙な登場人物たちが直面する世界終焉の物語。(ちなみに猫のゆりかごとは、あやとりの形の名前)
 一応SFらしいが道具立てに少し感じさせる程度で、あまりSFを読まない私でも入り込みやすく、全編、皮肉とユーモアに溢れていて、非常に楽しく読めました。特にボコノン教の描写がよかった。情け容赦ないあらゆることに対する意味の剥奪も、歌うような警句もいいけれど、最初に本当のことを書いてある親切設計が、他の宗教になく良心的。真実を語る必要をこれ程感じさせない本も珍しいんじゃないだろうか。もちろん呆気ない世界の終焉にも特に意味はなく、嘆こうにも、嘆くべきシンボルはとっくに奪われてしまったのであった。
 それでも逆説的だけれど、全ての虚構が剥ぎ取られ、取り残された安っぽい母性愛の中でただ生きる主人公は、<フォーマ>(フィクションのこと)がいつでも私たちに必要で、人間たらしめている大切な物なのだと言っているのだと思えた。
 面白かった登場人物は、米国大使夫人にして、永遠の恋に浸るミントン大使夫人。一番まともかと見せかけて、本の索引を見るだけで作者がホモだと見抜く凄腕の持ち主。死に際も素敵でした。次点は、皮肉の効いている事前事業家にして実業家のキャッスル親子。
 本筋には関係ないが、『ナイス、ナイス、ヴェリナイス』とか、細かく分けた章立てはきっと、「さようなら、ギャングたち」のパロディ元だと思うのだが。思いがけないところで出会えて、びっくりした。
 色々思うことはあるけれど、結局まとめるてみると、この一言で十分。
「猫、いますか?ゆりかご、ありますか?」
* 2006/04/08(土) # [ 読書感想文 ] トラックバック:0 コメント:0
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