÷0  ジャンル雑多な読書感想文
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失われた時を求めて9
失われた時を求めて9
囚われの女Ⅰ
マルセル・プルースト 集英社

 アルベルチーヌによってもたらされる嫉妬の描写がかなりの部分を占める10巻。モレルに振り回されるシャルリュス氏とジュピャンの姪が気の毒。寝てるアルベルチーヌの描写が素敵でした。
 あらすじ。パリに戻ってきた語り手はアルベルチーヌと一緒に暮らすようになるが、彼女のふとした嘘や素振りからゴモラの女ではないかと疑いを深める。一方、モレルはジュピャンの姪と婚約するが、彼女や親代わりのシュルリャス男爵とは諍いが堪えない。そんなある日、ベルゴットが美術館で死亡する。また、スワンも病状が悪化して死亡する。
 主要登場人物があっけなく死んでしまう巻であるが、サロンでは凡人であったけれど作品の残るベルゴットと再起のある社交人であったけれど何も残らないスワンの対比が哀しい。けれど、スワンも語り手が書き残すことによって「失われた時を求めて」の中で生き続ける。
 何度も言及される同性愛の描写は、どうも感覚的に掴みづらいのだが、キリスト倫理の強い社会では禁忌とされた風習であったことを考え合わせると、この作品はなかなか衝撃的なのかも知れない。

いつもどおり面白かったところから引用。
故意にそんな姿勢をとろうと思ってもとれないような自然な体勢で、ながながとわたしのベッドに横たわっている彼女は、花をつけた細長い茎をそこにおいたように見えた。そして実際その通りだった。こんなとき、あたかも彼女が眠ったまま植物に変わってしまったかのように、私は彼女の不在のときでなければ持ちえない夢見る力を、彼女のかたわらにいながら取りもどすのであった。
もう一つ。
その男といっしょに三時のお茶を飲んだとすれば彼女はこう答えるからである、「お昼前にちょっと会いましたわ」この二つの事実のあいだにある唯一の違いは、一方が嘘で他方が真実であると言うことだ。だが嘘をついても真実を言うのと同じく罪はない、あるいはこう言った方がよければ、嘘も真実同様に罪が深い。
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* 2006/02/24(金) # [ 読書感想文 ] トラックバック:0 コメント:0
Le Petit Prince
Le Petit Prince
サン・テグジュペリ Harcourt(表紙は邦訳版)

 企画でも紹介した”C'est un champignon!”(そんなのキノコだ!)の台詞が素晴らしい『星の王子様』 本屋クラッシュのおかげで、最近本屋でよく見かける。外国産の割には装丁がきちんとしていたので裏を見たら、中国で作られていたので、どことなく空しい気持ちになった。

 無駄話はおいておいて。あらすじは省略。ストーリーより、実際読んでしまった方が早いし。丁寧なメタファーと、どこかメランコリックな語り口が読んでいて快い。点灯人の話や、赤ら顔のおじさんの話は、風刺が効いているので、なかなか面白く読めた。心が洗われるようだとは、さすがに恥ずかしくて言えませんが。
 ところで、「失われた時を求めて」のスワンとオデットにしろ、王子とバラの花にしろ、フランスではつれない女性とそれに尽くす男性というのが割と一般的なんだろうか。でも、別れの場面での花の台詞は可愛らしい(と思う)
「わたしが愚かだったわ。許してちょうだい。どうか幸せになってね。貴方を愛しているの。貴方がそのことを全く知らなかったのは、わたしの過ちのせいね。あんなのは、全然大事なことではなかったのに。でも、貴方もわたしと同じくらい、愚かだったのよ。どうか、幸せになってね・・・。(中略)そんなふうにぐずぐずしていないで、いらいらするのよ。もう行くって決めてしまったんでしょう。さっさと行ってよ。」


 最後に、キツネと王子さまの登場する21章から適当和訳
「ほら、あそこに小麦畑が見えるかい?ぼくはパンは食べないんだ。ぼくにとって、小麦は役に立たないよ。ぼくは小麦畑を見ても、なんにも思わない。それって、とっても悲しいことだ!けど、君は金色の髪を持ってる。だから、君がぼくと絆を結んだとしたら、小麦はとってもすばらしくなるよ!金色の小麦は、ぼくに君を思い出させてくれるだろう。そしてぼくは、小麦を吹き抜ける風の音が好きになるだろう。」
キツネは黙って、長いこと王子さまを見つめていました。
「お願い、ぼくと絆を結んでおくれ!」とキツネは言いました。
「そうしたいんだけれど、あんまり時間がないんだ。友達を見つけなければいけないし、知らなければいけないことがたくさんあるんだ。」王子さまは答えました。
「絆を結んだことしか、知ることは出来ないんだよ。」キツネは言いました。「人間にはもう、知ることが出来るだけの時間なんてないんだ。」
* 2006/02/18(土) # [ 読書感想文 ] トラックバック:0 コメント:0
さようなら、ギャングたち
さようなら、ギャングたち
高橋源一郎 講談社文庫


 正直よく分かりませんでした。本を読んだのに、「よく分からなかった」ということしか分からないなんて、悲しくなってきます。悲しみのあまり文体が変になってしまいました。ポストモダンの旗手による作品で、とてもポップであるらしいことは知っているのです。どうやら「小説を書く」ことについて書いたらしいことも、何となく分かるのです。多くの作家の文体をところどころ真似たり、拝借していることも感じられます。(『中島みゆきソングブックをもとめて』は「失われた時を求めて」のパロディでしょうし、例の『イエス』の語尾はジョイスの「ユリシーズ」からでしょうし、他にも色々あるに違いない)断片的には何か伝わるような気がするんです。「わけのわからないもの」とか、何かを言おうとしているおしの「ギャング」とか。でも、木星人や隣の吸血鬼や、翼の生えたバーテンなんかになると、さっぱりお手上げなんです。冷蔵庫になってしまったヴェルギリウスが「さようなら、ギャングたち」に自分は何であるのかと聞きに行く場面は可笑しいのだけれど、いったい何でそんな場面があるのか全然分からないのです。
 「一億三千万人のための小説教室」で小説のすばらしさをあんなにも力説している高橋さんのことですから、きっと、とてもとても頑張ってこの小説を書いたのだと思います。言葉を選ぶこと自体に無理があるのに、それでも選びに選んで、色んな作家に敬意を表しながら、真摯に向かった結果が、処女作たるこの小説であるのだと思います。書評なんかを見ると、どうやら大学紛争やらに巻き込まれて、言葉の無力さや生き残ったことの理不尽さを踏まえて、それでも何とか書いた小説なんだそうです。
 ということまで知っているのに、それでもよく分からないままなのです。
 
 一つの小説を読んで、伝えたいことがあるはずなのに、それがこちらに全く感じ取れないことは、悲しいことです。強烈に、何かを伝えたいことは分かるのに、それでも全く分からないのです。とてももどかしい気がします。小説に限らず文章は、発表した途端に作者の手を放れ、読者の解釈へと委ねられるものですが、どうしてこんなにも隔たりがあるのでしょうか。「全てが分かる」なんて傲慢にも近いことは言えないし、全てが完璧に伝わるなんてことはそもそもあり得ません。けれど、こんなにも一生懸命に何かを言っているのに、何にも読みとることが出来ないのは、こちらの怠惰によるせいが大きいような気がするのです。どうして、時間は山ほどあったのに、こんなにも怠慢を重ねてきてしまったのでしょう。これからの時間も、怠慢を重ね続けるに違いないのに。
 とりあえず、時間をおいて、いつか読み直すしかないんでしょうか。



(追記)
* 2006/02/14(火) # [ 読書感想文 ] トラックバック:1 コメント:0
鍵・瘋癲老人日記
鍵・瘋癲老人日記
谷崎潤一郎 新潮文庫

 どちらも不能になりかけた男が、妄想によって欲情を掻き立てる話を日記の文章でつづったもの。両方とも変態くさい。前者はサスペンスチックで、後者はほのぼの日記(嘘)。
「鍵」あらすじ。性的能力が衰えた主人公は、古風で貞淑な風を装いながら淫蕩な妻の欲求に応えるため、性生活を詳細に記した日記の鍵をわざと妻の見える場所に置き忘れる。日記を読んだ妻は、読んでいないふりをしながら、夫に見せる目的で自分も日記を付け始める。妻の裸体を鑑賞するなどの行為に飽き足らなくなった夫は、後輩の木村を妻に接近させることで、自分の嫉妬を高ぶらせ、能力を回復しようとする。双方で日記の盗み見をおこないながら、それを意識して、書き続ける夫婦の結末は。
 陰険4人組の騙しあいが楽しい。大学教授の主人公、その妻郁子、娘の敏子、後輩の木村が主な登場人物なのだが、日記でつづられている本作品では、結局皆がどのような意図で行動しているのか、はっきりとは分からない。日記での文章だから、思ったままを書いているとは限らないところに、叙述ミステリのような要素も含まれる。
 郁子の淫蕩で魅力的な体を中心として、物語は進んでいて、端的に言えばそれ以外のものはほとんど出てこない。主人公は不能になりかけており、また死を予感していることで、性への欲求は一段と鬼気迫った者になっている。これは、「瘋癲老人日記」にも繋がるもの。考えてみれば、性欲は自己保存欲求の一形態であるのだから、死の間際になって切実さを増すことも当然のことなのかもしれない。

「瘋癲老人日記」あらすじ。数年前に脳梗塞を起こした主人公の老人は、左手が多少不自由だが、性的能力は失っても息子の嫁の颯子を妄想の糧にしながら、おおむね健康に毎日を過ごしている。颯子は不倫しているようだが、主人公はそれを見逃すことでおこぼれに預かっている。そんなある日、主人公は墓を作るために、颯子と京都に赴く。
 ひたすらに妄想日記。悪ぶっている颯子や、腐れ縁状態のばあさんが、入院の時など時折見せる気遣いが、他の部分とのギャップと相まって何とも言えない感じ。食欲と性欲で生きているようなものだから、食べ物の描写は生き生きとしていて美味しそう。鱧に梅肉を付けて食べるシーンとか。「鍵」と違って悲壮さよりも、おおらかな雰囲気さえして、読んでいて微笑ましいような困惑するような気分になる。とりあえず、介護している老人がこんな風にわがままだったら、少々手に余る気はする。
 両作とも主人公が足フェチなのは、作者の性癖だからだろうか。「瘋癲老人日記」の主人公の、墓まで足の形にして、死後まで踏まれ続けようという執念には脱帽。

 次は変態老人つながりで川端康成の「眠れる美女」を読む予定。あとは、筒井康隆の老人版バトルロワイヤルの「銀齢の果て」か。


以下、「鍵」のネタバレコラム
* 2006/02/12(日) # [ 読書感想文 ] トラックバック:0 コメント:0
失われた時を求めて8
失われた時を求めて8
ソドムとゴモラⅡ
マルセル・プルースト 集英社

 今回は、今までの大貴族達のサロンではなく、ブルジョワ達の「小さな核」でのサロンの情景が中心。シャルリュス男爵とモレルのソドム関係や、アルベルチーヌのゴモラ疑惑などもちょこちょこと出てくる。少しかじったことのある「ペレアスとメリザンド」が何回も作中に出てきて、微妙に嬉しかったり。
 あらすじ。母と共にバルベックへ赴いた語り手は、嫉妬も起こさずにアルベルチーヌと穏やかに過ごす。母は祖母にだんだん似てきている。カンブルメール夫人のラ・ラスプリエール荘を借りたヴェルデュラン夫人は、そこで開いている水曜会に語り手を招く。水曜会にはヴァイオリニストのモレルを目当てにシュルリャス男爵も来ている。ブルジョワ達はゲルマント侯爵夫人とカンブルメール夫人の区別さえ付かない。語り手はアルベルチーヌのことがどうでもよくなったので別れようとするが、彼女がゴモラかも知れないことを掴むと、急に嫉妬に駆られ彼女との結婚を決意する。

面白かったところ・気になったところ
未だカンブルメール夫人をカマンベール夫人だと信じているリフト。
大学教授であるブリショによる、語り手のイメージをかきたてる司祭による語源の説明を否定と、彼が説明する土地の名の意味(くどい)
オデットとクレシー氏(今は落ちぶれているが、趣味のよい貴族)の関係。
アルベルチーヌがヴァントゥイユ嬢の女友達と親しいと知るやいなや、急変する語り手の態度。
土地の名からイメージを膨らませていた「バルベック」の習慣による変化。
その雰囲気はもはや苦悩をかきたてはせず、ひたすら人間の発散するにおいに充満して、楽に呼吸できるもの、あまりにも心を静めるものにさえなっている。少なくともそこからわたしが引き出す利益があるとすれば、それはもはや物事を実用的観点からしか見なくなったことだろう。だからアルベルチーヌとの結婚は、狂気の沙汰のように思われてくるのだった。
語り手にとってアルベルチーヌは見知らぬイメージを想像させる女である。それによってゴモラのイメージなどを持った語り手は、嫉妬に駆られる。しかし、サン=ルーに媚びていた彼女を見た途端、語り手は嫉妬から解放される。同時期、にバルベックの幻想のイメージも「小さな核」のブルジョワ達や地方貴族達を知人に持つことによって破壊される。虚構の持つイメージを失い、こうした実用的観点に立った語り手にとって、幻想をかきたてる女であるアルベルチーヌとの結婚は、馬鹿げたものとして見える。しかし、彼女が漏らした一言によってゴモラの疑惑を持った語り手は、その疑惑によって彼女へと急旋回する。
このように虚構の持つイメージを失っている語り手が、有名な円環構造で「失われた時を求めて」という一つの大きな物語を書き出すまでどのような変化がこれから起こっていくのか、楽しみになってきた。

巻末の注で思いも掛けないネタバレ(オデットとクレシー氏の関係について)があったので、驚いた。今までもたびたびあったのだが、先々の楽しみが奪われてしまうのでネタバレはもう少し慎重にやってほしいところである。勿論、丁寧な注はありがたいのだが。
* 2006/02/08(水) # [ 読書感想文 ] トラックバック:0 コメント:0
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